今月のひとこと 「手を合わす 親の姿に 子が学び」

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浦(乃美)宗勝公と勝運寺

浦宗勝

浦宗勝像 安芸の国(広島県) 忠海城主 浦兵部丞宗勝は、戦国時代の勇将にして特に海軍に於いて、しばしば大きな功績を挙げました。
小早川隆景に属し三万三千石を領し、当時は海軍を海賊衆と称しました。宗勝は海賊衆の頭領にして、中国地方の覇者、毛利元就部下の海軍大将であります。室町時代の初期に小早川氏の本家より分かれて一家を立て、城を忠海床浦に築き浦氏と称しました。四代のち乃美賢勝を養子に迎え、その子が浦兵部之丞宗勝であります。父に倣い、乃美宗勝とも浦宗勝とも名乗りました。
宗勝は幼少より船に慣れ海に親しみかかる間に生長し且つ天性勇武なる宗勝が、水軍に陸戦に獰猛なる勇将として英名を海内に轟かせました。29歳の時の厳島合戦から始まり、防長攻略、尼子氏征伐、伊予の役、九州の役、備中常山城の戦い、播州上月城の役など海戦、陸戦と小早川水軍の将として活躍。天正3年の木津川口の合戦では、織田信長支配下の九鬼水軍を破り、兵糧攻めにあっていた石山本願寺に兵糧を運び込むことに成功しました。この合戦のようすは近年、和田竜著「村上海賊の娘」で活写されているのでご存じの方も多いことと思います。
天正10年天下を統一した羽柴秀吉と毛利氏が和し、その後秀吉勢として隆景に従い海将として、また陸戦隊長として活躍。四国長宗我部征伐、九州島津征伐、その他小田原征伐にも出陣しました。文禄征韓の役には66歳の老体を持って渡海し各地に転戦したれども病にかかり、隆景に帰国静養を命じられ、当時小早川氏の領地は筑前に移されており、筑前立花山の麓に帰したるも9月30日長逝す。その遺体は現・福岡市東区の宗勝寺に葬られ、遺髪は当勝運寺に納められました。

浦宗勝の菩提寺勝運寺

勝運寺は浦宗勝が菩提寺として1581年に建立されました。 また、現・広島市安芸区にあった新興寺から以天圭穆(いてんけいぼく)和尚を招いて開山と伝えられています。 以天圭穆和尚がこの地に赴く際に使用した駕籠、また文禄の役に際して小早川隆景が浦宗勝に贈ったと伝えられる弾薬庫(軍用櫃)が今も残り、1971年12月27日、竹原市重要文化財に指定されています。

駕籠以天圭穆和尚が山口鳴滝月光山泰運寺より乗ってこられたとされる駕籠。高さ112cm、幅80cm、長さ97cmで漆塗りの立派な造りです。

軍用櫃小早川隆景が浦宗勝に贈ったものと伝えられる弾薬輸送庫。長さ174cm、幅72cm、高さ100cmで4個の車輪が付いています。

墓所浦宗勝の遺髪が納められた墓。今も立派な宝篋印塔があります。

浦宗勝と鍵城

鍵城を望む 浦宗勝の墓を背に海に目を転ずると海辺に小高い山があります。これが水軍の将、浦宗勝の居城「鍵城」跡です。 麓の多くはすでに陸地化していますが、斜面には海食崖のあとがあり、水軍の砦であったことが今も伺えます。 南側からの道を上がってみれば頂上は平らかで本丸、二の丸あとと思われます。 海の眺望が効き、見張りには最適な地形だったことと思います。

▲勝運寺から鍵城を望む

床浦神社 鍵城の西に床浦神社という神社がありますがもとは、鍵城の位置にあったのを浦宗勝が移転、鎮座させたのだそうです。

▲床浦神社